1960年代末、日本発のクォーツウォッチが、世界の時計の意味を変えた。水晶に電圧をかけて振動させ、その周期で時を刻む。日差は一秒に満たないことも珍しくない。機械式が何百年かけて守ってきた精度の王座が、一気に移った。

クォーツショックと呼ばれるその変化で、スイスの多くの工房が苦しんだ。正確で、安く、電池を換えればまた動く。時計は、特権ではなく、誰もが持てる道具になった。今も、日常のほとんどはクォーツか、その子孫の電子が担っている。

クォーツは、時計を正確にした。機械式は、正確さ以外の理由を残した。

では機械式は終わったのか。終わらなかった。残ったのは、精度競争とは別の価値だ。分解して直せる、音と動きが見える、長い時間をかけて作る。道具としての最適解と、工芸としての最適解が、ここで分かれた。

グランドセイコーのように、クォーツでも高級を極める道もある。正確さを捨てない高級、という答えだ。機械式かクォーツかは、善悪ではない。何に金と時間を払うかの選択だ。

腕の上の時計を見るとき、動いている理由を一つ言える。水晶か、ぜんまいか。その一言があるだけで、時計の話は値段の話から一段降りる。